外在化は、会話における態度や方向性である
私がナラティヴ・セラピーの文脈での「外在化」を知ったのは、2021年ごろのことです。当時は、とにかく「外在化」をやってみたくて、やたらといろんな場面で「外在化もどき」なフレーズを口にしては、うまく通じずに玉砕していた記憶があります。
この頃は、「外在化」に聞こえるフレーズや言い回しを使えば「外在化」になると思っていました。ナラティヴ・セラピーの本に載っている外在化表現を片っ端からピックアップして暗記科目のように暗唱して覚える、ということもしていました。特に、当時自分のバイブルにしていた『ナラティヴ・セラピーのダイアログ』(国重浩一、横山克貴編著)からはたくさんの外在化表現を拾うことができ、何度も読み返しては頭に入れていました。
その後、ナラティブ・セラピーを学ぶ機会を得て、継続的に「外在化」に触れる機会がありました。2023年の春頃には、アリス・モーガンが『ナラティヴ・セラピーって何?』で述べているように「それは単なる技法ないし技術ではなく、会話における態度や方向性」なのだというところにたどり着きました。
それは単なる技法ないし技術ではなく、会話における態度や方向性なのです。このことはとても重要です。というのも、外在化が単なる技法として使われると、まったく逆効果になってしまうことがしばしばあるからです。
―アリス・モーガン『ナラティヴ・セラピーって何?』邦訳p34
まず姿勢があり、その先に技法がある。姿勢がしっかり保たれていれば、技法はあとからついてくるのではないか、とも考えるようになりました。「外在化もどき」の会話をしていたことに比べると、技法へのこだわりが和らぎ、「人を責めない」という姿勢や態度を会話の中で継続することの難しさに意識が向くようになったと思います。
「人を責めない」とは、どういうことなのか:社会やコミュニティとの関係をみる視点
外在化の大前提として姿勢を位置づけ、それを実践していこうとしたとき、とても難しさを感じました。「人を責めない」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
「人を責めずに問題の話をする」というのは、一瞬とても目の前が明るくなる気がするのですが、「人を責めない」とどんなに思っていても、うっかり会話の迷路に迷い込んで、いつのまにかそのような考え方を持ち込んでいることもあります。「人を責めない」ことにとどまりつづけるには、心許なさがあり、それがどこから来るのかを知らなければなりませんでした。
マイケル・ホワイトの『ナラティヴ実践地図』に、外在化は「人々のアイデンティティを客体化する実践への対抗実践」であるという記述があります。カウンセリングの会話の中で、「人を責めない」ことを実践するには、外在化が成し遂げようとしていることを知っていなければなりません。それは、単に「その人のせいにしない」ことではなく、「問題と人とを切り離して考える」ことでもありません。外在化が目指しているのは、人を客体化する社会の仕組みや構造に問題意識をもつことなのです。「外在化」を実践するときに忘れてはならないのは、「人の悩みは、その人が属する社会やコミュニティとの関係の中で生まれるのではないか」という視点なのだと思います。
人ではなく問題が問題となる外在化する会話は、人々のアイデンティティを客体化する実践への対抗実践と考えることができる。外在化する会話は、人を客体化する文化実践に対抗して、問題を客体化する実践を採用する。
―マイケル・ホワイト『ナラティヴ実践地図』邦訳p26-27
このような解明過程は往々にして、人々をセラピーへ導く問題の「政治学」の歴史をあきらかにする。これは、人々を影響下に置き人生やアイデンティティについてのネガティヴな結論を形作る権力連関の歴史である。
―マイケル・ホワイト『ナラティヴ実践地図』邦訳p27
ナラティヴ・セラピーでは、当たり前・正しいとされる知識や考えの力強さが、特定の人を不利な立場に押しやっている可能性について注意深く考えます。
―国重浩一、横山克貴『ナラティヴ・セラピーのダイアログ』p322
私たちは、自分の住む社会の中で、そこにある「言葉」にどのように影響を受けて、そこにある「考え方」にどのように影響を受けているのか、よくわからないものです。そのため、私たちの身の回りにある<普通><当たり前><当然>とされていることについて、じっくりと考えてみることは大切なこととなります。
―国重浩一『ナラティヴ・セラピー・ワークショップ BOOKⅡ』p21